記憶の中の会話にかかる変換フィルタ
過去の記憶の中にある他人との会話。
他愛ないものから、印象的なものまで、その会話がなされた情景を含め、さまざまな記憶が残っている。
私の場合、そこにちょっと変わったエッセンスが紛れ込んでしまうことがある。
そのエッセンスとは「方言」である。
ただ、「方言がまぎれる」といっても、単純ではない。
会話の内容が、
どんな方言でしゃべっていたとしても「勝手に関西弁」に変換
されてしまうのである。
そのような現象に気がついたのは、実はかなり前からである。
私には、幼少のころから年に1度は鹿児島に行くというイベントがあり、そのたびにその土地の方言に染まって関西弁がしゃべれなくなるという時期があった。
しかし、それは関西に戻ってから3週間ほど経つとすっかり抜けてしまっているのだ。
そのころには鹿児島で起こった出来事の記憶中の会話も、話し相手であった現地人ですら、すっかり関西弁に摩り替っていた。
気がつくと、どうやら鹿児島弁と関西弁の間だけで起こる事象ではないらしい…ということが判ってきた。
今では、関東の友人もいるのであるが、関東の友人と話していた内容ですら、記憶の中にしばらく留めておくと、いつの間にやら関西弁に摩り替っているではないか。
さらに気がつくと、海外旅行をして「英語で会話をしていたはずなのに」、いつの間にやら、記憶の中の会話は「関西弁」なのである。
相手がバリバリのフレンチイングリッシュであろうと、西海岸イングリッシュであろうと、クイーンズイングリッシュであろうと、お構いなしに「関西弁」に変換なのである。
たしか、熊出没注意のステッカー(英語版)が張ってあるトイレの中で金髪のご婦人とこんな会話をしたはずなんだ。
「ウチの主人が、このトイレには熊がいるんか?とかいうねんよ」
「うわ、そら大変ですなぁ」
「ホンマにおったら、食べられてまうやんなぁ」(ケラケラ)
…英語でなんて言ったか覚えてないんだな…。
…しかし、なんでぢゃ…?私だけ?